結婚と恋愛の関係について ― 亀井勝一郎の著書から考える
先日、久しぶりに再読した、文芸評論家である亀井勝一郎の著書『人生の思索』の中に、結婚と恋愛の関係について、示唆に富む一節がありました。やや長いですが、まずはそのまま引用します。
結婚は恋愛の連続であるとともに終結である。
「結婚は恋愛の墓場だ」と言われる。人はしばしば結婚してから失恋するものである。それはどういうことであろうか。
それまで互いに気づかなかったさまざまの弱点に気づくということもある。恋の惰性もある。移り気もある。しかし、そのために一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう。互いの弱点に気づくとは、互いの人間性に対して開眼させられたということである。弱点や欠陥のない人間はない。もし完全無欠な人間がいたとしたら、そのことがその人間の弱点となる。完全無欠であることによってあきるであろう。恋愛とは美しい誤解だと言ったが、結婚とは恋愛が美しい誤解であったことへの惨憺(さんたん)たる理解である。結婚は恋愛への刑罰である。しかし、すべての人間が受けなければならない刑罰であるから、これに耐えることが必要である。人生にわがままはゆるされないのだから・・・。
そして、互いに弱点の多い人間同士として、恋愛から卒業し、人間として共同するよう心がけるべきである。それがいやなら一生を独身で送ることだ。その代わりその人は、人生に対する失恋者のような立場に置かれるだろう。
この文章は、「結婚は恋愛の墓場」という一般的な言い回しを出発点にしながら、その本質をより踏み込んで捉えています。特に印象的なのは、「結婚してから失恋する」という表現です。恋愛の最中には見えなかった相手の現実的な側面に直面したとき、理想が崩れ、感情的には“失う”感覚が生じるという指摘です。
しかし同時に、それは関係の後退ではなく、「人間性に対する開眼」であるとも述べられています。つまり、恋愛段階では理想化されていた相手像が、結婚を通じて現実の人間として認識されるようになる。この変化をどう受け止めるかが、その後の関係を大きく左右するといえるでしょう。
また、「完全無欠な人間がいたとしたら、そのことが弱点になる」という指摘は、人間関係の本質をよく表しているように思います。象徴しています。欠点があるからこそ関係は動き、調整され、継続される側面があります。逆に言えば、完璧さを求めすぎること自体が、関係を不安定にする要因にもなり得るのではないでしょうか。
さらに踏み込んで、亀井は結婚を「恋愛への刑罰」とまで表現しています。この強い言葉は、現代の感覚からするとやや過激に映るかもしれません。ただし、その背景にあるのは、「人生は思い通りにならないものであり、その現実を引き受ける必要がある」という認識です。理想と現実の乖離に向き合い、それでも関係を維持しようとする姿勢を求めているように思います。
もちろん、現代では多様な生き方が尊重されています。結婚のあり方も一様ではなく、個々人が自らの価値観に基づいて選択するものとなっています。その意味では、「結婚するか、しないか」という単純な考え方だけでは語れないでしょう。
しかし一方で、どのような関係であっても、他者と長期的に関わる以上、理想と現実のギャップに直面することは避けられません。その際に求められるのは、相手の不完全さを認識しつつ、自らもまた不完全な存在であることを受け入れる姿勢です。
亀井の文章は昭和30年代初期に書かれたものですが、その根底にある「人間関係の現実を直視する」という視点は、今なお示唆に富んでいます。理想だけでは人との関係は続きません。相手の不完全さを受け入れ、自分自身の不完全さとも向き合うこと。その積み重ねこそが、長く続く関係を支えるのかもしれません。
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